東京のベッドタウン、千葉県松戸市の歴史や産業、観光スポットを解説 | 仲介手数料無料のREDS

こんにちは。不動産売買の仲介手数料が【無料・割引】の【REDS】エージェント、宅建士・宅建マイスターの小野田浩です。

本日は東京のベッドタウンとして栄え、不動産購入を検討される方が多い千葉県松戸市のご紹介をさせていただきます。

松戸市

(写真はイメージです)

松戸市の地理・地形

松戸市は千葉県の北西部の東葛地域に位置し、都心から20km圏に位置しています。西側は江戸川を挟んで東京都葛飾区、江戸川区、埼玉県三郷市に隣接し、南側は千葉県市川市、東側は千葉県鎌ケ谷市、東側から北側にかけて千葉県柏市・流山市と隣接しています。

市域面積は61.38km²で、東西の距離は約11.4km、南北の距離は約11.5km、ひし形状に広がる地形となっています。

松戸市の地盤

松戸市は関東ローム層の堆積した洪積層台地の「下総台地」と、利根流域の沖積層の低地により形成された「河川低地」からなり、標高は25~30mで全体的に高低差が少ない平坦な地形となっています。

また、谷津と称する「谷底低地」が樹状に多数きざまれており、地下水の湧水や海の海進海退によって侵食された急斜面や崖が形成されています。この急斜面の樹林地や洪積層台地と沖積層低地の間の斜面緑地は、市内の緑の資源として重要な存在となっています。

下総台地は比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われています。関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されますが、自然堆積したローム土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好な場合が多いといえます。

しかし、下部の凝灰質粘土は部分的に軟弱になっていることがあるので、ローム土が薄く、凝灰質粘土が浅く分布している場合には、基礎補強対策が必要となることがあります。

谷底低地は台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布しています。台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地盤となっているため、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となることが多いといえます。

松戸市の人口・世帯数

令和6年3月1日現在、人口49万7388人(男性24万6151人、女性25万1237人)、世帯数は23万9449世帯です。

松戸市出身の主な著名人に、和田豊・涌井秀章(野球)、山崎直子(宇宙飛行士)、清川虹子・山崎努・高木美保・阿部サダヲ・北翔海莉(俳優)、押切もえ(モデル)、福岡伸一(分子生物学者)、伊坂幸太郎(小説家)、山下智久(タレント)の各氏がいます。

松戸市の歴史

松戸市のエリアには約3万年前に人々が住み始めたとされ、縄文時代の生活の跡を示す多数の遺物が発見されています。

平安時代には下総と常陸、武蔵国を結ぶ街道が通り、交通の要衝とされました。

江戸時代に水戸街道が整備されると、松戸と小金に宿場が置かれ、宿場町として繁栄しました。また、江戸川沿いの河岸は銚子方面で獲れた鮮魚を江戸へ運ぶ中継地としてにぎわいました。一方、東部の常盤平、松飛台、五香六実の一帯は幕府直轄の馬の放牧場となり、馬の供給拠点となりました。

明治時代に水戸街道が国道になると、交通量の増加によりますます栄えます。1889(明治22)年に町村制の施行により、松戸町をはじめ2町4村が誕生しました。そのあとは鉄道路線、幹線道路や電気・電話などの開通で都市化が進みます。

昭和初期には町村合併が相次ぎ、1943(昭和18)年に松戸市が誕生すると、1954(昭和29)年に小金町を編入して現在の市域となりました。これ以後、急激な人口の流入を背景に、大規模な住宅団地の造成や学校建設、道路整備などが続きました。

1969(昭和44)年、それまでの市役所のイメージを変えようと「すぐやる課」が設置され、全国から注目を集めました。近年では住みやすいまちづくりに重点を置いた首都圏近郊都市として発展しています。(「すぐやる課」の設置は昭和44年なのですね。語感的にバブル期以降なのかと思っていました)

松戸市の農業について

松戸市は都心から近い距離にありながらも農業が盛んな地域です。農地面積は500ha以上、農業者は1600人ほど。特に、野菜や果樹の栽培が盛んで、都市型農業が展開されていることでも有名です。「まつどの梨」「松戸えだまめ」「あじさいねぎ」「矢切ねぎ」などが特産品です。

松戸の梨栽培は、明治時代から行われるようになり古い歴史を持ちます。8月を迎える頃には市内の観光梨園が開園し、梨の販売やもぎ取りが行われます。また枝豆も有数の生産地であり、茶豆系、青豆系を含め多くの品種を生産してきました。あじさいねぎは、あじさいが有名な「本土寺(別名、あじさい寺)」にちなんで名づけられ、シャキシャキとした食感と、程良い辛味が特徴です。

松戸市には海がないため、水産業はほとんど見られませんが、川にはウナギやフナがいます。

松戸市の工業について

松戸市は古くは、水戸街道の宿場町として発展し、江戸時代には徳川家の邸宅が置かれ、鷹狩も行われていた記録が残っています。また、市内に流れる江戸川では水運が栄え、松戸の農村地帯から多くの農産物が江戸へと送られました。またその頃、べっ甲細工や象牙彫りなどのものづくりも興り、松戸市の伝統工業へと成長しています。

近代では工業団地が造成され、「北松戸工業団地」「稔台工業団地」「松飛台工業団地」が市内製造業を支えます。いずれも鉄道駅に近接している数少ない工業団地として有名です。製造業の内訳では、食料品製造業、金属製品製造業、各種機械器具製造業、電子部品等製造業、プラスチック製品製造業の割合が高くなっています。

また、医療機関が充実していることから、医療やバイオ関連の高付加価値企業が集積しているのも特徴です。

松戸市の商業地について

松戸市は江戸時代に水運が栄え、同時に宿場町として都市機能が発達しました。1896(明治29)年になると、現在の常磐線が開通し、人口が増加。1943(昭和18)年の市誕生以降、東京のベッドタウンとして栄えるようになります。

それに伴い商業都市としても発展。市内産業の約半分を卸売業・小売業が占めており、松戸駅を核として中心市街地が広がります。松戸駅周辺には大型のスーパーマーケットや商業ビルが立地しているほか、ファーストフードや居酒屋、ファミリーレストランといった飲食店も多く、多くの人でにぎわいます。

また、商店街では「伊勢丹通り商店街」が有名。数百mにわたり、多くのお店が軒を連ね、歴史ある呉服屋から、個人商店、飲食店など多彩なジャンルのお店が並びます。

デパート伊勢丹は2018年に閉店してしまい、にぎわっていた駅前の商業地は徐々に客足が遠のき、残念ながら現在は完全に柏駅前の商業地の方が栄えています。

松戸市の観光スポットについて

矢切の渡し

江戸川水運の河港として栄えた松戸市の「矢切の渡し」は、市を代表する観光スポットです。江戸時代には江戸川にある唯一の渡しとして多くの町民や旅人に利用され、明治時代の小説「野菊の花」や細川たかしさんの演歌「矢切の渡し」などに登場することでも知られています。もともとは地元民専用の渡し船でしたが、現在は観光船が運航。葛飾区柴又側からのみ乗船が可能です。

市中心街にある「松戸神社」も歴史あるスポットです。創建は1626(寛永3)年で、ご祭神は東征伝説で知られる「日本武尊」(やまとたけるのみこと)。境内には、拝殿や礼拝所、秋葉神社、摂社などがあり、一年を通じてさまざまな祭事が執り行われます。当時は仏教の影響を受け、「御嶽大権現」(おんたけだいごんげん)とされていました。江戸時代には、徳川光圀がこの松戸神社を訪れたとされ、光圀が鷹に矢を放とうとしたものの弓が折れてしまい、ご祭神に敬意を表した光圀が、折れた弓矢を奉納したという言い伝えが残っています。

松戸市北部のJR常磐線「北小金駅」近くにある日蓮宗寺院「本土寺」も有名です。1227(嘉禄3)年に創建された本土寺は、池上本門寺、妙本寺とともに日蓮宗の中心寺院に位置付けられています。「あじさい寺」としても知られており、6月頃になると境内には約5万本の紫陽花が咲き乱れ、四季折々の自然が鑑賞できる花の名所としても有名です(現在はどうか分かりませんが、「はとバス」のコースにもなっていました)。

では、また。

 

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