皆様こんにちは。
不動産流通システム【REDS】のエージェント堀 茂勝(ほり しげかつ)です。
ご縁がありましてお会いする皆様とは、大事な財産の購入や売却のお手伝いをさせていただくことになります。
不思議なご縁でお会いします皆様に、わたくしがどんな人物なのか、自己紹介を続けさせていただきます。
●住まい:静岡県 → 東京都 → 神奈川県
高校生まで「静岡県」で、学生時代は「東京都」、そして「神奈川県」に転居しました。
現在は、結婚してから約28年間、横浜市青葉区に社会人の娘と3人で住んでいます。
(早くも銀婚式が過ぎてしまいました。びっくり!)
ちなみに銀婚式は「25年目」とのことですが、金婚式は、なんとその倍「50年目」!なんと長いことでしょう。
ちなみに30年目は真珠婚式。35年珊瑚婚式、40年ルビー婚式、45年サファイア婚式、55年エメラルド婚、60年ダイヤモンド婚だそうです。
娘が誕生した頃は、仕事ばかりで家庭を顧みなかった事も多かったぶん、今は、夫婦で「街歩き」をするのが、いちばんの楽しみに。
…なのに、このコロナの影響。いちにちも早く収束して、夫婦で昼から横浜の野毛あたりを飲み歩き「昼飲み」ができる事を祈っています。
●高校時代
「静岡県」に住んでいた時代にさかのぼります。
高校は、男子生徒全員が自分のサッカーシューズを所持しているほどサッカーが盛んな、藤枝市の県立高校でした。
体育の時間も、必ずサッカー。体躯の授業が水泳の時も、マラソンの時も、「はやく終わればサッカーさせるぞ!」と教師が叫ぶと、生徒全員ががんばって早く終わらせて、作った残り10分でも、着替えてグランドに出て、ミニサッカーをはじめるほど、みんなサッカー大好き高校生でした。
高校2年生の時に、サッカー部が晴れて「静岡県大会」で優勝。そうです、正月の「高校サッカー選手権大会」に出場です!
しかもその時私は、なんと「応援団長」。バスを連ねて東京まで応援にまいりました。
「応援団長」というと怖いイメージかもしれませんが、実はこの県立高校では応援団は、やわな「応援委員」。
「図書委員」などと同じように、各クラスの「文科系の部活の生徒」から抽選などでの寄せ集め。
私も当初1年生の時に「声が大きい」というだけで委員に選出され、そのまま続けていたら「応援団長」になってしまっただけでした。
しかし他の私立高校や工業高校などでは、「応援団」は厳しい部活。他校は、やる気があるコワオモテの志願者ばかりです。
そんな他校とは、サッカーや野球の試合の際に、応援団長・副団長、双方同士の「挨拶(エール)交換」の場があるのですが、なにせこちらは単なる「応援委員」。
先方の応援団長のあまりの気迫に圧倒されまくりながら、なんとか必死に「ぅおっ、オッス!!っ。」と、せい一杯の虚勢をはっても、なんか弱々しかったのを、今でも思い出します。
〇部活
「応援委員」は、比較的時間が自由な「文化部」所属の生徒から選出されるのが伝統なのですが、
私の所属していた部活はというと、当初1年生では「化学部」でした。
「文化祭」での、人気の科学実験で入場者を増やした成果により、1年の3学期には「部長」になってしまいました。
しかし、演劇好きの同級生から誘われて化学部は退部。この高校では十数年前に廃部になっていた「演劇部」を新たに作ろうと、数人で「演劇同好会」のたちあげに参加しました。
当時「演劇」は、県内の他校では、女子生徒ばかりのおとなしい部で「夕鶴」などの古典演劇をおこなう事が多かったのですが、東京ではパワフルなミュージカルが流行りはじめた頃。(柴田恭兵がいた「東京キッドブラザース」…なんて、ご存じの方いらっしゃいます?)
その影響もあり、首都圏の高校では、男子が大勢の「演劇部」も多くなってきていたのに感化され、自分たちもと、男子生徒メンバーが中心になって「演劇同好会」を新たに立ち上げ、現代の戯曲の台本を入手して、迫力満点でパワフルな学生劇に、どんどんのめりこんででいきました。
その後「演劇同好会」は、あっというまに「県大会」で賞を取るまでになり、顧問の先生の尽力もあって学校に認められて、廃部になっていた「演劇部」を何十年ぶりに復活させる事ができました
●大学時代
東京の大学に進学し、そのまま独身時代は「東京都民」です。
西新宿に高層建築の校舎を持つ、工学系の大学の「機械工学科」に進学しました。
当初は「杉並区成田東」という地名の、善福寺川の近くの「トイレ共同!、風呂なし!」のアパートでした。
アパートの近くの銭湯に通っていたのですが。当時は近くに、なんと「二子山部屋」がありました。
そこの若いお相撲さんもお風呂に来るのです。力士が2人ほど、「ザッパーン」とお湯を溢れさせて湯船に入ったあとは、ほとんどお湯が無くなってしまい、苦笑いでした。
その後、社会人になってから、井之頭公園の近く、「杉並区久我山」の「ロフト付きテラスハウス」に移りまして、
結婚直前に世田谷区の「奥沢」のアパートにしばらくいました。
ここまでが「都民時代」です。
貧乏学生だった大学時代。文系と違い、実験やレポートが多い理系学生。金のない私には建設業界でのバイトで稼ぐことが必須でした。
そして、勉強と仕事を両立していたのもつかの間。ヒト不足のバブル期に、どんどん仕事が増えます。
その仕事の面白さに引き込まれて、その「ベンチャー企業」の「学生社員」になっていってしまいました。
・・・今回は、ここまで。
このあと、社会人になった後の様々な職種の業務経験について、また次回に続けさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
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